第57回大会・総会を開催します

東京歴史科学研究会第57回大会・総会を下記の通り開催いたします。詳細につきましては、追って掲載いたします。
※4月14日更新:会場の教室番号、個別報告・委員会企画報告の報告要旨および趣旨文を掲載いたしました。
※4月23日更新:申込方法を掲載いたしました。

チラシもご参照ください。

日程

2023年5月13日(土)・14日(日)

プログラム

第1日 2023年5月13日(土)

《個別報告》 13:00~18:00

第2日 2023年5月14日(日)

《総会》 10:00~12:00

《委員会企画》 13:00~17:30

「権威をめぐる記録・記憶と地域社会」

開催方法

対面・オンラインのハイブリッド方式
※新型コロナウイルス感染症の流行状況により、開催方式が変更となる可能性もございます。

参加費

600円(両日共通)

参加申込み方法

peatixよりお申し込みください。

申込締切:5月11日(木)

★お支払い方法★

  • クレジットカード:VISA、MasterCard、JCB、AMEX、Discover、Diners Club、PayPal
  • コンビニ:LAWSON、FamilyMart、サークルK、サンクス、Mini Stop、Daily Yamazaki、Seicomart
  • ATM:Pay-easy、ゆうちょ銀行、ジャパンネット銀行、楽天銀行、じぶん銀行

会場

早稲田大学早稲田キャンパス 3号館502教室(キャンパスマップはこちら

〈交通アクセス〉

  • JR山手線・高田馬場駅から徒歩20分
  • 西武鉄道・西武新宿線 高田馬場駅から徒歩20分
  • 東京メトロ・東西線 早稲田駅から徒歩5分
  • 東京メトロ・副都心線 西早稲田駅から徒歩17分

報告要旨

個別報告

鎌倉後期の訴訟提起手続についての一考察

石川光年

 近年の日本中世の裁判に関する研究は、主に訴訟手続の面を中心にして進められてきている。訴訟を起こしうるか否かは、裁判権者との所縁を有するか否かにかかっており、権門あるいは法曹官僚などとの縁故関係が裁決の行方を決めうるという、棚橋光男氏の「属縁主義」(棚橋『中世成立期の法と国家』)、主従関係や本所本主被官関係によって裁判所が決められるという井原今朝男氏の「本所法廷主義」(井原『日本中世の国政と家政』)などの研究概念が提起され、多元的な裁判権が存在する中世において、訴訟当事者の身分や属性、あるいは人間関係が裁判のあり方を決定づけることが明らかになった。佐藤雄基氏は、所属関係が必ずしも自明でない中世においては、属縁主義と本所法廷主義は明確に区分できず、人々の取り結ぶ《縁》の強弱によって訴訟が提起され、裁判が行われる(あるいは行われない)と指摘している(佐藤「中世の法と裁判」)。このように、近年の研究は《縁》をキーワードとして進められてきたといえよう。
 しかし一方で、西村安博氏・黒瀬にな氏が指摘するように、《縁》を強調しすぎることにも慎重になるべきである(西村「(書評)佐藤雄基著『中世の法と裁判』」・黒瀬「日本中世訴訟研究における『属縁主義』」)。《縁》という超歴史的な概念を多用すると、何でも《縁》で説明できてしまい、《縁》の歴史性が見えにくくなってしまうおそれがあるからである。
 本報告では鎌倉後期の事例を中心にして、訴訟当事者がどこに・どのように訴訟を提起したのかに焦点を当てて、中世の訴訟手続の実態について多少なりとも迫りたい。たとえば近江国葛川は、近隣荘園である伊香立荘と激しい相論をくり返していたが、両所とも青蓮院を本所としていた。しかし鎌倉末期、伊香立荘民による葛川住人殺害事件が発生し、葛川はこれを本所へ提訴したがうまくいかず、次にとった手段は葛川とは何の関係ももたない鎌倉幕府(六波羅探題)への働きかけであった。このようなことができたのは、事件の関係者に幕府御家人がいたためである。鎌倉後期になると、訴訟当事者がわずかな伝手をたどったり、あるいは「面を替える」ことによって訴えを起こす事例、また相手方がその違法性を訴え、訴人の提訴を封じようとする事例が多くみられる。それら訴訟の動きに注目し、いかにして訴訟ルートを確保しようとしていたかについて、従来研究の手薄であた鎌倉後期の実態が明らかにできると考えられる。

総力戦下における幕末志士の慰霊・顕彰―東京市の「勤皇祭」を事例に―

岩立将史

 昭和一二(一九三七)年七月七日、中国北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突した。この盧溝橋事件をきっかけに日中全面戦争となった。同年八月からは、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」の三大スローガンのもとに国民精神総動員運動が展開された。
 昭和一四年四月、東京市は「勤皇祭」を実施した。「勤皇祭」は、日中戦争という「君国の大難を打開」するため、東京市ゆかりの幕末の尊王攘夷派志士ら「勤皇の英霊を祭祀」し、「皇都市民の精神を振起」しようとした催しであった。四月一六日に日比谷公会堂で式典が行われ、四月一八日には幕末志士ゆかりの各区寺社で墓前祭が営まれた。この「勤皇祭」は、翌年以降も続けられた。
 アジア・太平洋戦争に突入した後の昭和一七年一一月、大政翼賛会は、開戦から一周年を迎えるにあたり、南北朝時代の南朝方武将や幕末の尊王攘夷派志士などを顕彰する「勤皇護国ノ烈士、先覚者顕彰運動」の実施を提唱した。この運動は、一二月八日から実行され、全国的に展開した。これにより、東京市が主催してきた「勤皇祭」は、同市と大政翼賛会東京市支部の共催となった。
 従来の研究において、幕末志士の慰霊・顕彰の問題は、主に明治期から昭和戦前期にかけて分析されてきた。戦時期を検討した研究はあまり多くはないが、国民が戦争に動員されていく実態を把握するうえでは、等閑視してはならない時期だと思われる。「勤皇祭」については、アジア・太平洋戦争下に東京市と大政翼賛会東京市支部によって開催された「勤皇祭」の概略は述べられているが、その変遷や実態解明など残された課題は少なくない。
 そこで、本報告では、「勤皇祭」の変遷を概観するとともに、趣旨や新聞報道、参加者の感想などを分析し、その実態を明らかにする。そのうえで、総力戦下における幕末志士の慰霊・顕彰の意義を考えたい。

電信線と朝日関係―朝鮮社会の反応に注目して―

中村祐也

 本報告の目的は、日清戦争以前に漢城から釜山の間に架設されていた電信線を事例として、日本と地域社会との関係を考察することで、地域社会にとって日本はどのような存在であったかを考察することである。
 従来、朝鮮史において電信線は、朝鮮人民による民族解放闘争を惹起するものとして位置づけられてきた。そして電信線をめぐって日清戦争時の日本軍による弾圧と人民の抵抗という図式で研究が進められてきた。この図式の問題点は、朝鮮の電信線はそもそも清朝が架設したものであり、南路電線(漢城―釜山間電信線)にいたっては朝鮮政府が設立した朝鮮電報総局が工事を手掛けていたということである。たしかに日清戦争直前に日本軍は独自で釜山から漢城に向けて軍用電信線を架設した。しかし、先行研究で議論されていたような、日本と清朝とが朝鮮にとって同質的な外圧であったかいなかという問題は、日清戦争時の日本軍との関係のみをみていては解決し得ない。
 私はかつて西路電線(仁川―漢城―義州間電信線)を事例として、清朝の機関である漢城電報総局と統理交渉通商事務衙門(外衙門)と地域社会との関係を考察し、漢城電報総局は地域社会にほとんど影響を与え得なかったことを明らかにした。それは、漢城電報総局から地方官に外衙門を通じてさまざまな要請を出してはいたものの、地方官の対応はまちまちであったために、要請はなかなか貫徹しなかったからであった。そしてそこでの特徴は、漢城電報総局が直接的に朝鮮社会に対して何かをするということはなかったということである。
 では日本はどうであっただろうか。日本軍は日清戦争時の軍用電信線架設に際して、外衙門の許可なく工事を開始し、軍隊が地方官庁に乗り込み圧力をかけて要求を押し通そうとしていた。他にも軍夫の問題行動はすでに指摘されるところである。また、軍用電信線にたいして朝鮮の民衆がどのような反応を示していたかについての研究も進められている。しかし、さきに指摘した課題に応えるためには、朝鮮社会にとって日本軍はどのような存在であり、またどのような反応を引き起こさせたかを明らかにする必要がある。

一九三九年旱魃下の植民地朝鮮――窮乏下における朝鮮民衆の総督府支配認識と行動――

宮崎智武

 本報告は、一九三九年に朝鮮半島南部を中心に襲った旱魃下おいて、朝鮮民衆は総督府支配に対してどのような認識を持ち、また、どのような行動をとっていたのかを分析するものである。
 一九三九年の旱魃は植民地期の朝鮮において最大規模の旱魃といえ、総督府が集計した罹災戸数で一一八万余戸(総戸数は約四〇〇万戸)、収穫高にして朝鮮全体で約一千万石の減収(前年比四割減)という惨状が、朝鮮半島南部地域を集中的に襲った。
 この旱魃下における朝鮮民衆について分析することは、総督府支配下において朝鮮民衆がどのような状況に置かれていたのかを象徴的に浮かび上がらせるとともに、同時期に強化されつつあった皇民化政策への朝鮮民衆の反応をみるためにも非常に重要であると考える。旱魃が影響する一九四〇米穀年度下においては、志願兵応募者や愛国班組織率の激増、創氏改名の届出(「設定創氏」)が総督府の予想の四~五倍に達する等、それまでの総督府支配の中からは想定し得ない状況が生じており、それぞれ総督府の強制の影響のみではなく、生活苦が影響していることが見受けられるためである。
 宮田節子は、早くからこの旱魃と皇民化政策の関係に注目し、朝鮮民衆の総督府支配や日中戦争に対する根強い反発精神があることを見出しつつも、志願兵政策に対しては生活苦から応じざるを得なかった状況を分析した。また趙景達は皇民化政策期の朝鮮民衆について、生活至上主義に生き、総督府に対して面従腹背する姿を論じた。両者の見解は鋭いものであると言えるものの、同様の視点からの研究が手薄であるという課題がある。本報告は、宮田と趙の成果を踏まえつつ、より具体的に、旱魃下の生活状況や朝鮮社会の状況、その中での朝鮮民衆の認識や行動を分析し、皇民化政策期における朝鮮民衆の姿を明らかにしていくものである。
 第一章では、一九三九年の旱魃の全体像や、朝鮮人の生活状況を、統計や家計調査を使いながら明らかにする。また、旱魃への地域有力者による救済体制についても、植民地以前のものや植民地期の他の時期と比較しながら違いを明らかにする。
 第二章では、旱魃下において、朝鮮民衆は総督府支配や日中戦争にどのような認識を持っていたのかについて、取締り資料等から明らかにする。
 第三章では、前章までの成果を引き受けながら、引き続き取締り資料や新聞資料を用いて、生活苦の中で朝鮮民衆どのような行動を取ったのか、総督府の施策や政策に対してどのような反応を示していくのかを明らかにしていく。
 そこで本報告では、南路電線や日本軍が架設した軍用電信線を事例として、日本や日本軍とこれら電信線の関係、そして朝鮮社会にとってこれらはどのような存在であったかを問うことによって、如上の課題に応えていきたい。

委員会企画

趣旨文

 東京歴史科学研究会では、第四一回大会(二〇〇七年度)以来、「新自由主義時代の歴史学」を基本テーマに掲げ、第四六回大会(二〇一二年度)以降は、人びとの「生存」をキーワードに大会を企画している。昨年度の第五六回大会では、COVID-19感染拡大の経験と近年の研究状況を念頭に、「救済」の観点から「生きること」に向き合う人びとに焦点を当てた。とりわけ「救済」の思想や制度もあわせ検討対象とすることで、各時代の「救済」の歴史的意味をさぐり、ひいては「生きること」の困難さに直面した人びとのありようを浮かび上がらせようとした。
 今年度大会では、天皇に代表される権威の存在を手掛かりに、権威と関係を取り結ぶ地域、地域に生きる人びとの立場から「生存」「生きること」の歴史的解明を試みる。ここでいう権威と地域の人びととの関係は、権威を介した合意調達に限らない。すなわち、権威と地域との結びつきを誰が、いかに語るか、といった権威側に対する地域の人びとの思惑や関心、利用も含んでいる。
 権威に注目するうえで取り上げたいのが、地域において形成され、変化してゆく記録・記憶のありようである。ここでいう記録と記憶の具体的な検討対象は、活字資料のみならず、記念碑などの史跡、語りなど多岐にわたる。かような、各地域で残され継承されてきた言説を通して、近年、記録と記憶をめぐる歴史的変遷とその意味が多角的に問われてきた。また、直近でもCOVID-19の流行や、ロシアによるウクライナ侵攻、安倍晋三銃撃事件と「国葬」等をめぐる叙述・認識の変動といった、記録と記憶の形成過程を考える上でアクチュアルな問題が生じてきていると思われる。
 こうした状況をふまえ、本大会では、近現代の地域社会において権威がいかに捉えられたか、捉え直されたかに焦点を当てる。特に皇室をめぐる記録と記憶のありよう、地域と時代によって要請される記録と記憶の変遷を明らかにするべく、椿田有希子氏・河西秀哉氏に報告を依頼した。
 椿田報告は、現神奈川県域の大磯宿・戸塚宿における明治天皇東幸の顕彰・聖蹟化の様相を取り上げ、東幸の記録と記憶、そしてその奥に潜む地域社会内部の状況の移り変わりについて言及する。河西報告は、現愛知県豊田市域を素材に、天皇「代替わり」期に天皇の統監のもと執り行われた戦前の陸軍特別大演習や、戦後の天皇・皇太子夫妻の訪問から、戦前・戦後における地域内部での天皇制への向き合い方を概観する。コメントでは、地域における歴史認識の形成とその背景となる記録・記憶の視点を交え、白井哲哉氏に両報告を位置づけ直していただく。これらの議論から、当日は近代から現代における権威と、権威との結びつきを語る地域社会、人びとの「生きること」の関係を検討し、両報告と地続きの天皇制下に生きる私たちと権威の向き合い方を問い直したい。時代を超えた活発な議論を期待する。

明治天皇東幸の記憶と顕彰―神奈川県内、東海道大磯宿・戸塚宿の事例から

椿田有希子

 明治元年(1868)10月、明治天皇は東海道を通行し、京都から東京へと行幸した(第一次東幸)。それは、天皇が史上初めて関東に足を踏み入れたという意味においても、徳川将軍から明治天皇へと政権が移ったことを人々に実感させるという意味においても、まさに明治新政府の将来を賭した一大国家行事であった。それゆえこの東幸には、政治パフォーマンスとしての役割も期待された。たとえば長寿者や孝子節婦・困窮者・戊辰戦争罹災者らへの褒賞・下賜や、道中における農事・漁業天覧といった、民衆との心理的距離の近さをアピールする様々な演出が凝らされたのも、新しい治者=天皇に対する肯定的印象を沿道の人々に植え付けようとする明治新政府の営為のあらわれといえる(椿田「天皇の「見せ方」―明治天皇東幸と仁政イデオロギー」同『近世近代移行期の政治文化―「徳川将軍のページェント」の歴史的位置』第三部第八章、校倉書房、2014年)。
 ところでこの歴史的な出来事は、明治元年当時のみならず、後世にも少なからざる影響を及ぼしつづけた。明治天皇が通行した東海道沿いには、東幸を顕彰するモニュメントが数多く残されている。神奈川県内だけを例にとっても、昭和初期を中心に、大正から平成に至るまで、じつに30数基の木標や石碑が建てられた(現存しないものも含む)。ではこれらは、いつ、いかなる主体によって計画され、建造されたのか。その際、明治天皇との「つながりの記憶」は、どのような形で呼び覚まされ、切り取られ/改変され、先鋭化していくのか。言い換えれば、東幸の記憶・記録化の背景には、それぞれの地域独自の思惑や地域内での利害関係、時代の要請など、様々な要素が複雑に交錯しあいつつ存在していたと推察されるのである。
 そこで本報告では、時代や記憶のかたちが異なる二つの顕彰運動、すなわち大正から昭和初期にかけて複数の碑が建立された大磯宿(神奈川県大磯町)の場合と、昭和戦中期に行われた戸塚宿(神奈川県横浜市戸塚区)の場合、この二つの建碑を主な事例とし、上に挙げた諸問題について考察を加えたい。

地域が天皇制に出会うとき                       

河西秀哉

 本報告は、地域社会が近現代天皇制と接触したとき、人々はそれとどう向き合ったのか、またそれをどう受け止めて受容したのか、その権威はどう利用されたのかを、明らかにしようとするものである。
 これは、直接的には、地域における権威と民衆の関係性を本大会のテーマとした委員会からの依頼に応えるものであるが、報告者がこれまで研究してきた近代天皇制・象徴天皇制にとっても重要な課題の一つであると思われる。戦後歴史学においては、近代という時期に、地域の人々が天皇制を支持する/受容する構造の解明が試みられてきた。民衆史研究や国民国家論研究においても、人々を「国民」に統合していくためにいかに天皇制が機能したのかが研究テーマとなっていた。そうした研究を発展させるなかで、近代の天皇が地域社会にやって来る巡幸がいかにその地域に影響を与えたのか、そして人々がそのなかで天皇をいかに受け止めたのかを明らかにする研究も積み重ねられてきた。また、象徴天皇制研究においても、敗戦という危機のなかで、象徴天皇制が人々に定着していく過程として、巡幸に関する研究は展開された。
 報告者も編者の一人となった河西秀哉・瀬畑源・森暢平編『〈地域〉から見える天皇制』(吉田書店、二〇一九年)は、以上のような近現代の天皇制が地域といかなる関係を紡いできたのかを明らかにした、研究史の近年の到達点とも言える。本報告はこの路線をさらに発展させる形で展開したい。
 具体的には、大正期から戦後までの時期を検討対象として、こうした問題に接近する。つまり本報告は、近現代の比較的長い時期を扱う。ある時期のある事例を詳しく検討する手法ではなく、本報告のように長いスパンを検討対象とすることで、近代天皇制から象徴天皇制への転換や時代の推移が地域社会との関係性をいかに変えたのか、もしくは変えなかったのかを明らかにすることができるだろう。
 また具体的な地域として、愛知県の現豊田市域を扱う。この地域は、名古屋という大都市の近郊に位置するが、戦前は大正天皇・昭和天皇の陸軍特別大演習が、敗戦直後には昭和天皇の巡幸が、そして昭和の後半でもある一九七九年には全国植樹祭、平成に入った二〇〇三年には全国育樹祭が開催された。そのたびにこの地域は天皇制と向き合った。これらの事例を検討することで、人々は天皇制をどう受け止めたのかを明らかにする。それは、天皇制という権威と国家・地域、そして人々の関係性を検討することでもある。