第58回大会・総会を開催します
東京歴史科学研究会第58回大会・総会を下記の通り開催いたします。詳細につきましては、順次更新してまいります。
※4月6日更新:プログラム、開催方式、2日目大会委員会企画コメンテーター、参加費、報告要旨の情報をアップしました。
※4月15日更新:会場の情報をアップしました。
※4月20日更新:参加申込方法の情報をアップしました。チラシをアップしました。
チラシもご参照ください。
日程
2024年5月11日(土)・5月12日(日)
プログラム
第1日 2024年5月11日(土)
《個別報告》13:00~18:00
- 久下沼譲「戦国大名島津氏の一門衆に関する再検討―日向国における島津家久の役割を題材に―」
- 濵島実樹「鹿児島藩島津家における一向宗禁令とその変化」
- 韓梨恵「植民地朝鮮における朝鮮特別縁故森林譲与事業と「国有林創出」」
- 新川綾子「戦時期における名古屋医科大学・名古屋帝国大学医学部の産業衛生研究の展開―鯉沼茆吾による調査・研究を中心に―(仮)」
第2日 2024年5月12日(日)
《総会》10:00~12:00
《委員会企画》13:00~17:30
「「環境」から「生存」を問い直す」
- 黒田智「風雨の表象と水災の記憶―中近世越中の縄ヶ池と井波風―」
- 洪昌極「植民地期朝鮮における大規模人工湖の設置過程と水利体系の変容―黄海水利組合(一九二九~)の水利灌漑事業の事例―」
- 北條勝貴 コメント
- 司会:高柳友彦・長谷川裕子
開催方式
対面・オンライン(zoom)のハイブリッド方式
参加費
一般1000円、学生(学部生・修士)500円(両日共通)
参加申込方法
peatixよりお申込みください。対面参加の方にも、peatixでの事前申込にご協力くださりますようお願いいたします。
申込〆切:5月9日(木)
★お支払い方法★
- クレジットカード:VISA、MasterCard、JCB、AMEX、Discover、Diners Club、PayPal
- コンビニ:LAWSON、FamilyMart、サークルK、サンクス、Mini Stop、Daily Yamazaki、Seicomart
- ATM:Pay-easy、ゆうちょ銀行、ジャパンネット銀行、楽天銀行、じぶん銀行
会場
早稲田大学早稲田キャンパス3号館602教室
〈交通アクセス〉
- JR山手線・高田馬場駅から徒歩20分
- 西武鉄道・西武新宿線 高田馬場駅から徒歩20分
- 東京メトロ・東西線 早稲田駅から徒歩5分
- 東京メトロ・副都心線 西早稲田駅から徒歩17分
報告要旨
個別報告
戦国大名島津氏の一門衆に関する再検討―日向国における島津家久の役割を題材に―
久下沼譲
本報告では、戦国大名島津氏を題材に、大名当主の兄弟(一門衆)の果たした役割について考察する。
戦国大名島津氏における当主一門やその役割に関する研究は、主として「守護代」の存在に注目する形で行われてきた。
とりわけ、上記のような研究の軸とされてきたのが、天正十三年に肥後国八代に配置されるとともに「守護代」と位置付けられた島津貴久の二男義弘であり、この「守護代」義弘を肥後国の領域支配者とする評価を基に、戦国大名島津氏一門は、島津氏領国の領域支配を担う存在として、その役割を検討されていくこととなった。
戦国大名当主の一門衆が果たした役割については、複数ヶ国に跨る広大な領国の支配を実現するために構築した支配体制の問題と密接不可分なものとして検討が進められてきた。
それらの研究では、当主からの権限分掌により領国支配の一端を担う事が一門衆の主な役割と考えられており、島津氏における一門衆を巡る理解も、こうした研究動向に沿ったものといえる。
しかしながら、近年、戦国大名の一門衆による領域支配を巡っては、その一門衆が継承した「国衆家の家督」としての役割であるとし、一門衆の本質的な役割を当主名代としての軍事指揮や外交交渉に見出すなど、領国支配への関与を一門衆と密接不可分な役割とする従来の理解に、見直しを迫る研究も出てきている。
また島津氏においても、近年、一門衆を巡る理解の原点となった「守護代」島津義弘に対する評価を巡って、新たな見解が提示されている。
鎌倉期~戦国期にかけての島津氏の「守護代」を検討した新名一仁が、「守護代」義弘の地位を惣領の不測の事態に際し家督継承を期待される「特別な舎弟」と評価したほか、義弘の政治的地位について再検討した松迫知広も、「守護代」義弘の立場を、義久から当主権限の移譲を受けた唯一の一門であり、当主義久の「名代」であったと評価している。
上記のような指摘は、従来の「守護代」義弘像を大きく覆すものであり、それを前提とした島津氏の一門衆を巡る理解についてもまた、見直しを迫られているといえる。
そこで今回は、上記のような課題をふまえて、島津氏の一門衆の一人である島津家久に注目する。家久は島津貴久の四男、義久の異母弟に当たる人物で、島津氏の日向国への領国拡大に伴い同国佐土原に配されたことから、肥後国における義弘と並び、日向国の領域支配を担う存在と評価されてきた。
本報告では、同時期に日向国宮崎の地頭を務めた上井覚兼の日記などの史料を基に、日向国において家久の果たした役割やその性格について再検討を行い、戦国大名島津氏の一門衆に期待された役割の一端を明らかにする。
鹿児島藩島津家における一向宗禁令とその変化
濵島実樹
本報告は、戦国期から江戸時代にかけて一向宗を禁止する政策をとり続けた島津家が領内に発布した、「一向宗禁令」(一向宗禁制に関する「法令」)に着目し、それらを通時的に分析することを通して、一向宗禁令の質的変化の有無を検討しようとするものである。
慶長二(一五九七)年二月、朝鮮への出兵を控えていた島津義弘は、領内に「掟」を発布し、「一向宗ノ事、先祖以来御禁制ノ儀ニ候条、彼宗体ニナリ候者ハ曲事タルヘキ事」の一文を明記した。この「掟」は一向宗の禁止を明文化した最初のものと理解されており、以後、明治九(一八七六)年九月五日に解禁の布達が出されるまで、島津家領内においては、一向宗禁制の状態が維持され続けることとなる。このように長期間にわたって一向宗禁制を島津家が維持し続けたことは、島津家に関するこれまでの研究史のなかにおいて、特筆されてきたことであった。
他方、江戸時代後期、十一代藩主・島津斉彬に仕えた伊地知季安は天保期の初め、『寛永軍徴 巻三』内の「邪宗禁制ノ巻」のなかで、「一向宗茂、只御當家之御禁止と云、大抵ハ心得候へ共、皆其本則ハ次第ニ及傳失候」と記している。ここからは、一向宗が「御當家之御禁止」と言われているが、なぜ一向宗を禁止しているのか、その本質的な理由が分からなくなっていたことが見てとれ、禁制の質的変化が起こっていたことをうかがわせるのである。
ひるがえって、従来の研究史では、一向宗禁制を一律に均質的なものとして捉え、こうした質的な変化については看過される傾向があったように思われる。すでに、禁制下においても、その時々に一向宗の取り締まりが強化されたりするなどの事例が確認されていることを鑑みても、一向宗禁制には時期によって取り締まりや罰則の強弱が存在したことがうかがえる。そうした一向宗禁制という状態の変化の有り様は、一向宗禁令のなかにどのように反映されるのだろうか。例えば、先述の伊地知季安が言うような、本質的な意味を失った、禁制状態が存在したことを考えるならば、長期的な禁制という状態のなかで、禁令に関する文言の「定型化」が進行していたことが想定されると思われるが、それはいつ頃から始まるのだろうか。
以上の関心から、本報告では島津家によって発布された一向宗禁令の条文や文言を通時的に検討し、禁制の質的変化の一端を捉えてみたい。
植民地朝鮮における朝鮮特別縁故森林譲与事業と「国有林創出」
韓梨恵
本報告の目的は、朝鮮特別縁故森林譲与事業(1927年~1935年。以下、譲与事業)に着目し、調査過程及び処分過程の特徴を分析することをとおして、朝鮮総督府が進めた林政の問題を明らかにすることにある。
植民地朝鮮では、国有林内の区域を整理することを主眼とした国有林区分調査が実施されたのちに、民有林の権利関係を整理することを目的とした林野調査事業が行われ、さらにその後林野調査事業においても未着手となっていた第二種不要存林(縁故林)の私有林化を謳った譲与事業が行われた。したがって、植民地朝鮮で実施された林政の展開を俯瞰するとき、林野調査事業と譲与事業は、朝鮮民衆の林野利用が所有権取得へと結実する機会となったという意味で重要であった。
植民地期の林野政策の特徴を網羅的に探究した権寧旭は、譲与事業はあくまで国有林を縁故者に慈恵的に譲与したにすぎなかったという消極的な評価を下し、公有林創出政策であったいう点や、譲与対象に日本人山林資本家や朝鮮人山林地主が含まれていたという点を指摘していた。姜英心の場合も、譲与事業が実質的に対象にしていたのは「日帝権力の末端行政機関」である府や面と、「日人資本家」及び一部朝鮮人であり、反面「一般民衆の使用権」を厳格に制限していたとし、縁故林は名前を変えた国有林に過ぎなかったと主張した。
一方、近年の研究では、譲与事業は国有林の私有林化過程の文脈で考察されている。裵在洙は、譲与事業では林野調査事業の結果、縁故のある国有林として査定された山林の殆どが私有林化されたとしながら、朝鮮王朝期に村落共有林・特殊地役林として慣習的に利用されていた林野の大半が、共有から私有・公有に解体されたことを問題視している。李宇衍の場合は、譲与事業ではそれ以前の所有権取得の要点となっていた育林実績の基準を緩和・解体し、縁故者が所有者として査定されたと位置付けている。
このように、過去の研究では譲与事業をとおした国有林・公有林への編入や、日本人山林資本家・朝鮮人山林資本家への譲与が指弾されたが、近年の研究では林野調査事業の延長線上に譲与事業を位置づけ、当該事業を国有林の私有林化過程として把握している。しかし、いずれにしても先行研究は譲与事業の出願・処分結果のみを取り上げてきた点で共通していた。
本報告では、譲与事業の調査過程・処分過程に考察を加えていきたいと思う。先に言及したように、民有林を対象にした諸事業に先んじて国有林を対象にした調査が実施されたのが、植民地朝鮮で展開された林政の特徴であった。それゆえ、譲与事業実施時に既に国有林に編入されていた区域からの出願がどのように扱われたかを明らかにすることは、譲与事業の性格を捉えることにとどまらず、それ以前に実施されていた諸事業が抱えた問題に迫ることにも繋がると考えている。
戦時期における名古屋医科大学・名古屋帝国大学医学部の産業衛生研究の展開―鯉沼茆吾による調査・研究を中心に―(仮)
新川綾子
戦時期の「社会国家」構想の源流となった各政策の基盤に医療・衛生等の専門家の学知が存在し、専門家が学知を応用しながら政策にコミットしていく過程が分析されてきた(高岡裕之『総力戦体制と「福祉国家」――戦時期日本の「社会改革」構想』岩波書店、二〇一一年など)。また、産業衛生研究の応用形態に関しては、これまで労働科学研究所を中心に分析がなされ、戦時期における暉峻義等の言説の変容、女性労働者の保護に関する功績、戦後の労働科学研究所の動態も明らかになってきている。ただし、労働科学研究所では、暉峻の専門である生理学や桐原葆見の産業心理学の特質ゆえに、生産現場で労働者が蝕まれていた病理や災害に着目した研究成果が蓄積されていたとは言い難かった。生理学や心理学に限らない研究が可能となる組織編制となったのは、労働科学研究所が一九三七年に東京に移転したあとである(法政大学大原社会問題研究所/榎一江編『戦時期の労働と生活』法政大学出版局、二〇一八年)。むしろ、最初にこのような実態を先に明らかにしたのは工場監督官や内務省技師であった(三浦豊彦『暉峻義等』リブロポート、一九九一年)。つまり、労働科学研究所に関する分析のみでは、戦時期の産業衛生研究の全容が明らかにならないと考える。
以上を踏まえ、本報告では、工場監督官を経て、一九三五年に名古屋医科大学(のちに名古屋帝国大学医学部)衛生学教室の教員に着任するというキャリアを積み、当該期の「職業病」研究における代表的人物であった鯉沼茆吾に着目する。名古屋医科大学には全国で唯一、産業衛生研究に特化した研究室が設置され、その教員として鯉沼が着任した。鯉沼は日本産業衛生協会東海地方会を基盤にして、愛知県の行政・企業と協働しながら労働者の傷病の実態把握に努めた。眼前の労働者の病理を研究対象とする鯉沼の方法論は、生理学の方法論が主軸であった労働科学研究所とは一線を画すものであった。本報告では、鯉沼の調査・研究の内実について検討しながら、戦時期にその内容がどのように変容したのか、敗戦後に鯉沼の活動がどのように継承されたのかについて分析し、愛知における産業衛生研究の展開について明らかにする。その際には、健康/不健康の指標に基づく、労働者の峻別・序列化が、専門家によってどのように進められたのかについても考察を加えることとしたい。
委員会企画
趣旨文 「環境」から「生存」を問い直す
東京歴史科学研究会委員会
近代以降、一部の先進国は経済発展を推し進め、「生存」の危機を遠ざけてきた。しかし、それは周辺地域の「環境」に大きな負荷をかけるものであったため、結果的に、現在、より多くの人々を「生存」の危機に直面させている。産業革命以降の温室効果ガス排出量の大幅な増加に起因する地球温暖化は、そういった危機の一例として挙げられる。特に、昨年は世界的に記録的な猛暑となり、地球温暖化を「生存」に直結する問題として再認識したものも少なくないと思われる。そこで、最近、地球は環境危機の時代=人新世(Anthropocene)に突入したとし、改めて環境問題への対策を訴える言説が増えてきている。ただし、危機は人類に等しく訪れるとは限らない。例えば、地球温暖化に伴う気候変動の影響を真っ先に受けるのは、天然資源に依存した生活をしているグローバル・サウスの貧困層である。また、地球温暖化ほど広範囲ではないものの、森林破壊・河川改修などの「開発」も周辺地域の「環境」を破壊し、とりわけ地域住民の「生存」を脅かすものである。つまり、環境問題は国家間もしくは地域内の格差を拡大・顕在化させつつ、「生存」の危機を生じさせてきた。そして、その傾向は二〇〇〇年代以降の新自由主義政策の進展によって一層強められていると言えよう。
東京歴史科学研究会は第四一回大会(二〇〇七年度)以降「新自由主義時代の歴史学」を基本テーマとし、第四六回大会(二〇一二年度)以降、人々の「生存」をキーワードに大会を企画してきた。そして、一昨年度の第五五回大会では「人間の生活を取り巻く環境」に注目し、権力や地域社会の動向が自然資源の利用・管理に与えた影響を探ることとした。今年度大会では地球規模の環境問題が深刻化しつつある状況を踏まえ、改めて「環境」に注目し、「「環境」から「生存」を問い直す」をテーマに掲げた。具体的には、「環境」の改変が人々の「生存」を脅かしてきたことを明らかにすると共に、歴史上の人々の思想的営為から「環境」と人間の関係性を再考したい。それは、結果的に、多くの人々が環境問題を自分たちの「生存」に直結する問題として認識せず、多くの国々が真剣に対策を講じようとしていない現状を相対化することにもなろう。以上の問題関心にもとづき、今年度大会では黒田智氏・洪昌極氏に報告を依頼した。黒田報告では、中近世日本の加越能地域において形作られてきた水災の表象・記憶を分析し、その表象・記憶と当該地域の政治的・社会的秩序とのつながりについて考察する。洪報告では、植民地期朝鮮・黄海道における巨大人工湖の設置と、それに伴う旧来の水利施設・水利慣行の消滅・編成替えに注目し、朝鮮総督府の植民地「開発」が地域住民の生活世界・環境に与えた影響を明らかにする。その上で、古代から現代までを射程に入れ、環境史の研究を進めてこられた北條勝貴氏にコメントしていただき、領域横断的な議論の深化を目指したい。
風雨の表象と水災の記憶―中近世越中の縄ヶ池と井波風―
黒田智
人新世とよばれる新段階では、人間はもはやみずからがつくりかえた生活圏の内で完結して生きることはできず、「人間が自然への干渉を深めたはてに、人間もまた自然の一部になってしまう状況」(篠原雅武『人新世の哲学』人文書院、二〇一八年)が現出している。
「気候の危機は文化の危機であり、それゆえ想像力の危機である」(アミダヴ・ゴーシュ『大いなる錯乱』以文社、二〇二二年)。こうした環境危機のもとで人文学研究にもとめられているのは、物語やナラティブのもつ力への傾注である。それはまた、J・ドナルド・ヒューズが環境史の第三の主題を「自然環境をめぐる人間の思想や態度に関する研究」(『環境史入門』岩波書店、二〇一八年)としたこととも符合している。
さらにそれは、すでに半世紀以上前に、日本文学研究者の益田勝実が『火山列島の思想』(講談社学術文庫、二〇一五年、初出一九六八年)のなかで提唱した想像力史研究とも重なる。すなわち、「後代に残留したさまざまな断片を組み立てつつ」、「民俗の想像力のなかみを調べ上げる」。「残留文化を検討してはるかな前代を推測しようとする倒立立証法」を「特に見えざる人間の想像力の内容を立証するために利用」することである。 本報告では、これまでの環境をめぐる人文学の研究潮流と歴史学の動向を整理した上で、中近世日本における水災の表象と記憶をたどることにしたい。加越能地域は、いくつもの河川が日本海に注ぎ込み、なだらかな海岸線に沿って大小のラグーン(潟湖)が列立する。また砺波平野は、庄川・小矢部川というふたつの大河川がつくった扇状地で、あいつぐ大雨と河川の氾濫、河道変遷をくり返してきた。水とともに生きるこの地域の人びとにとって、水災はどのように表象されたのか。それは、どのように当該地域に固有の政治的・社会的秩序と結びつけられ、記憶されてきたのか。合わせて、集合的記憶としての固有の物語=ミニマムな共同体の記憶がもつレジリエンスの可能性についても展望することにしたい。
植民地期朝鮮における大規模人工湖の設置過程と水利体系の変容―黄海水利組合(一九二九~)の水利灌漑事業の事例―
洪昌極
本報告では、植民地期朝鮮の黄海道において「産米増殖計画」期(一九二〇~一九三四年)に水利組合事業によってもたらされた、当該地域における大規模な農業水利体系の変容過程を扱い、本大会のテーマである「環境」と「生存」をキーワードに、この事業が農民や住民たちにとっていかなる歴史的意味を持ったのかについて考察したい。
黄海道の農業地帯は、現在でも朝鮮民主主義人民共和国最大の穀倉地帯として知られているが、朝鮮半島の西北部に位置し朝鮮西海に面するこの地域は、朝鮮有数の農業生産地の一つであり、「産米増殖計画」期において最も大規模に水利組合事業が展開された地域でもある。水利組合は米穀増産を目的とした水利灌漑の改善事業の担い手であり、水利組合事業は朝鮮総督府が植民地「開発」政策において最も重視した事業の一つであった。黄海道では一九二九年代後半(「産米増殖計画」の後期)から、対象灌漑地域が一万三千町歩を誇る黄海水利組合を筆頭に、延海水利組合や安寧水利組合など、一万町歩を前後する規模の大規模水利組合が相次いで勃興する。黄海水利組合の包摂地域の規模は、創設年の一九二九年時点において朝鮮全土の水利組合中で二番目の規模である。
黄海水利組合が主な水源としたのは鳩岩池・禮義池という当組合において築造された人工湖である。中でも鳩岩池は、当時朝鮮最大の貯水施設であったが、この超大規模人工湖の設置がもたらしたものは何か。それは単に、新たな水源が増えることで用水量を増大させただけではない。加えて、関係地域において従来使用されていた水利施設を消滅させ、既存の水利体系を抜本的に編成変えさせたのである。その際に消滅した水利施設の中には、朝鮮王朝期以前から「朝鮮三大貯水池」の一つに名を連ねていた南大池などの著名な大貯水池も含まれる。一方、新たな大規模人工湖の設置過程は、言うまでもなく自然環境が大きく再編される過程であったし、水没地域の住民は移住を余儀なくされ、築造にあたっては多くの人夫が動員されるなど、住民たちの生活環境に大きな変容を迫る過程でもあった。 黄海水利組合の事業について本格的に調査された研究は存在しない。本報告で具体的に課題とするところは、第一に黄海水利組合の創設過程、第二に水利体系の変容と鳩岩池及び禮義池の築造過程、第三に農業生産構造及び住民の生活環境の変容の様相とその意味について明らかにすることである。


